ガイストスキャナー


エンゼルフィッシュ

後編 霧の魚


家に戻るとリンダが部屋に来て言った。
「さっき、何であんな事言ったの?」
「あんな事って?」
「わたしが毎日クラブの前を通ってるなんて……」
「だって、ほんとの事じゃないの?」
ジョンはベッドに腰掛けると片方だけ靴を脱ぎ捨ててその足をぶらぶらと揺らした。
「知ってたの? どうして?」
「君の事なら何だって知ってる。あの店に行ったのも初めてじゃないし、エドウィンに会うのも……。バウムクーヘンだってもう何度も食べた。そうでしょう? ぼくが知らないうちに……」
二人は真正面から互いの目を見つめた。

「調べたの?」
張り詰めたような表情でリンダが訊く。
「風が教えてくれた」
ジョンが答える。
「まさか」
彼女は中途半端に笑うと肩の力を抜いた。
「信じないの?」
少年はそんな彼女の仕草を観察するように見つめた。
「信じられる訳ないでしょ? あなたが風の力を使えるのは知ってる。だけど、風がそこまで万能なら、世界はもっと別の在り方をしてるんじゃない?」

「確かに。君はなかなか鋭い洞察力を持っているんだね。ぼくはいつも驚かされる。そうだよ。ぼくが言った言葉の半分は推察だし、もう半分は確証のない嘘。でも、君が肯定した瞬間に、それは事実だと認定された。そういう解釈でいい?」
それを聞いて、彼女は肩を窄めた。
「そうやってすぐに生意気な講釈を言う。トニーはもう少し可愛げがあったわ」
「ぼくはトニーじゃないし、君の弟でもないよ」
「でも、恋人でもないわ」
「君がそんな事を言うなんて、すごく残念だよ」
木製の小さなテーブルの上には作りかけの帆船モデルが乗っている。
「今日は疲れたでしょう? 早く寝た方がいいわ」
外れた帆柱を見て、リンダが言った。

「どうして22才なら君に相応しくて、12才ではだめなのさ? ぼくには理解出来ないよ」
「だって、12才なんて子どもじゃない」
二人は互いの意見を曲げようとはしなかった。
「15才だって子どもだろ?」
「よほど成人に近いわ」
「それなら、ぼくだって近いと言えるよ。成人年齢は18でそれより3つ下が15。それよりさらに3つ下だと12。6を2分してみれば、差はたったの1しかない」
「屁理屈よ。あなたがわたしより3才年下だという事実は変わらない。永遠に追い越せやしないんだから」
呆れたように彼女が言う。

「越せるさ。もしも、君がぼくよりも先に死んだらね。ぼくは君の年を越えて生きるだろう。いや、不可能かな。ぼくは君がいなければ生きていけない。なるほど。君の言う事はもっともだ。すごいや」
自嘲するように笑みを浮かべる少年にリンダが答えを突きつける。
「わかった。じゃあ、簡単よね。運命に復讐するためには、わたし自身が死ねばいいんだ」
「リンダ……!」
少年は狼狽して彼女を見た。それまで微妙に揺らしていた手足の動きが止る。

「いけないよ」
ジョンが口の中で呟く。
「そんな事、絶対にしてはいけない」
今度ははっきりと声に出して言う。
「あなたにとって都合が悪いから? それとも、国にとっての問題? あるいはMGSやデニスにとって……?」
リンダが責める。
「ぼくが……。そう。本当はぼくが怖いから……」
少年は俯くと小声で言った。
「自分が死ぬのが怖いの? わたしがいなければ、あなたも死ぬ。だから?」
しかし、少年はそれを否定した。
「君を失う事がだよ」
細く開いたドアの隙間から風が流れ込んで来る。

「わたしは、自分が死ぬ事より夢を失う事が怖いわ」
「夢?」
「もう随分長い間、夢を見なくなった。あの日以来……夜は眠れずに……。やっと朝方眠ってもまるで夢を見なくなってしまったの」
「どうして?」
「わからない。でも、もしかしたら……。あの日、風に夢を食べられてしまったのかもしれないわ」
重い扉がぎしりと動く。

「じゃあ、ぼくが眠ると夢を見るのは何故だろう? もしかして、それはぼくの夢じゃなくて、風の夢? 風がぼくに夢を見せているの? 何のために?」
「ほら、もう混乱してる。あなたは少し風の力と自分とを切り離した方がいい。せっかく今はアメリカと離れていられるんだから……」
「でも、繋がってるよ。陸続きではないけど、やっぱりぼくら、繋がってる」
「それでも、アメリカに吹く風とイギリスに吹く風は違うんじゃないかしら?」
しかし、少年は頭を振った。
「同じだよ。差異はあっても変わらない。記憶から消せない。風は言葉を持たないけれど、意味を与える事なら出来る。彼らは記号であって記号でない。コンピュータは人間だけに利点をもたらしたんじゃない。鬱屈していた闇に力と手段を授けてしまったんだ」

「どういう事?」
「つまりはね、こういう事なんだ。ネットの世界は便利だけれど、その底には個人の不満が蓄積してる。やがて、それらは溢れ、噴出し、戦争は人間を置き去りにして機械的になるだろう。世界は最も危険な時代に突入したのかもしれないって……」
「あなたが作ってるゲームの話?」
「違う。現実の話」
「そりゃ、そうでしょうよ。今やボタン一つで核ミサイルだって飛ばせるんだから……でも、最終的な判断をするのは人間よ。心のある人間がそこまで愚かだとは思えない」
「信じてるの?」
「そうよ。おかしい?」
「ううん。でも、ぼくは疑ってる。わかり合える人間ばかりじゃないって……。だって、もし、話し合いですべてが解決するならば、歴史に戦争という2文字は無かった筈だ。そうでしょう?」

「だから、また戦争するの? 誰と? 今度はどの国がターゲットになるの?」
「ぼくだっていやだよ。でも、人間は……どこまでいったって愚かだ」
「だから、制裁を加えるの? あなたのその……風の力で……。そこで暮らすたくさんの人の気持ちも考えずに……」
「そうしなければ守れない正義だってあるんだ」
冷たい闇の向こうで鳴る遠雷。崩れていく雲の形。踏みしだかれて鳴く声を、更に砕いて闇は散る。

「あなたが軍人にならなくて良かったわ」
「何故? ぼくはパパみたいにはなれないと言うの?」
「逆よ。あなたは能力者なのよ。無防備な世界でそんな力を行使されたらたまったもんじゃないわ」
「でも、ぼくが使えるのはコンピュータだ」
「そのコンピュータが人を殺す。さっきは、そう言わなかった?」
「ああ。そうだね。いつか、コンピュータに巣喰う闇や人工知能や人間の傲慢で無知な心が人類を滅ぼすかもしれない」
「あなたの力で、それを阻止出来ないの?」
「どうかな? 自信はないよ。でも、そんな日が来たとしたら、ぼくは止めるだろうね。でも、それは世界を守るためじゃない。君を含んでいる世界を壊したくないから……」
「ありがとう。でも、あなたはもっと視野を広げた方がいいわ。今は、目の前にある物しか見えないかもしれないけど、ネットじゃなく、現実の世界はもっと広いのよ。そして、女の子だっていっぱいいる」

「君にとって男の子がいっぱいいるように?」
「そうね。たとえばエドウィンみたいな彼」
「それは……やめといた方がいい」
「何故?」
「彼には妹が憑いてる」
「ほんとにいるの?」
「いないよ」
「じゃあ、嘘なの?」
「そうでもない。彼に憑いているのは闇の風……。場合によっては妹より質が悪いかもしれない」
「大丈夫よ。噛みつかないなら……」
「今夜、ブログの事、調べておくよ」
「じゃあ、明日には彼に報告出来るわね」
「そうだね。君が道場に行くまでにはプリントアウトしておく」
その時、夕食を知らせる呼び鈴が鳴った。

そして、夜。ジョンは早速コンピュータでエドウィンの妹のブログをチェックした。
飼っている熱帯魚の写真やイラスト。ファッションやスイーツ。憧れているスターの事。明るくきらきらとした記事ばかりが並んでいる。兄であるエドウィンの事も書かれていた。彼らは二人兄妹で、両親を早くに亡くしていた。だから、彼らは仲良しで、いつでも一緒なのだと書いてあった。

――お兄ちゃん、大好き!

アップされた写真に添えられたメッセージ。それは兄がテニスの大会で優勝した時の写真だった。メダルを掛けた彼の隣で大きなトロフィーを抱えている妹。二人とも笑顔で幸せそうだった。

「秘密の日記は……」
表の記事を一通り読み終えてしまうと彼はいよいよ秘密の日記に取り掛かった。14才の少女が内緒にしておきたがった心の記憶とは何だったのか、そして、そこに彼女が事件に巻き込まれたヒントが書かれているかもしれない。
表示されたパスワード欄に文字列を打ち込む時、ジョンはこれまで一度も感じた事のない違和感を覚えた。それは、ある種の高揚と罪悪感に似ていた。パスワードはいつものように透けて見えたし、それを開くよう依頼されたのだから躊躇う必要もなかった。だが、その内容は公開されていない筈なのだ。ルール違反だとはわかっていた。が、彼女は犠牲者なのだ。自分の能力を使えば、関係した者の足取りをネット上に追う事が出来る。彼はその捜査に協力するつもりだった。

はじめはやはり他愛のない憧れや欲しい物のリストなど夢や空想などが語られていた。
しかし、読み進めていくうちに、意外な事実を知る事になった。

――わたしは、もう手伝うのがいやになりました。疲れてしまったのです。

それは兄に対するちょっとした不満から始まっていた。

――でも、大好きなお兄ちゃんに喜んで欲しいから、もう少し頑張ります。

それはうれしい事と悲しい事が交互に書かれていた。まるでエンゼルフィッシュのスプライトのようにくっきりと分かれていた。

――洗濯物。お兄ちゃんのユニフォーム。なかなか落ちなくて手が痛い。

何気ない日常の描写がだんだん輪郭を現して来る。

――わたしは奴隷そのものだ

そう書いたあとには、魔法を信じる無邪気な少女を演じる。

――いつか、わたしを迎えに来るの。昔、指輪をくれた魔法使いが……。そうしたら、最高にハッピーになれる!

そして、友達の誕生日の事……。

――最高の日! お兄ちゃんがくれたプレゼント! でもね、新しい洋服を汚してしまった。また洗濯しなきゃ……。

行間に滲む気配。そこに徘徊する闇は、いったい誰のものなのか。

――今日はお兄ちゃんとゲームをしました。でも、勝てなかった。強すぎるよ、お兄ちゃん。だから、もうゲームはこれで終りにします。


そして、翌朝。まだ霧が晴れないうちにジョンは出掛けた。
テニスクラブにはまだ誰も来ていなかった。芝生のグリーンでさえ、白く霞んで見える。空も森の木々もまだ白いヴェールに包まれていた。
ジョンは大型の封筒を抱えて門の近くに立っていた。数分もしないうちに彼が現れた。
「おはよう。悪かったね。待たせてしまったようで……」
彼は笑顔で挨拶した。
「ぼくも丁度今来たところです」
ジョンはにこりともせずに言った。エドウィンの目はジョンが抱えている封筒に注がれていた。

「解けましたよ。秘密の日記のパスワード」
少年が着ている迷彩色の上着とフェンスと芝生が溶け合って見えた。
「それで、君は妹の日記を読んだのか?」
「はい」
「そうだよね。読みたくなっちゃうよね。秘密だなんて言われると……。でも、それはよくないんじゃないかな? 確かに僕が頼んだ事ではあるんだけど、彼女の日記を読むのは兄である僕だけの権利だからね。君はただ、パスワードを教えてくれさえすればよかったんだ」
男の青い瞳が光って見えた。
「内容はここにすべてプリントアウトして来ました。それと何人かのお友達の分も……」

「友達?」
エドウィンは怪訝な顔で訊いた。
「ぼくは証拠になる資料をすべて集めました。それは彼女の友人関係の資料も含まれています。あなたの妹さんの名誉を回復するために……」
「名誉?」
「はい。妹さんを殺した犯人がわかったんです」
「本当か?」
男の顔がぱっと輝く。
「これを警察に提出すれば、すぐにでも犯人は逮捕されるでしょう」
「そうか。ありがとう。協力してくれて……。コンピュータというのはすごいんだね。僕もやっておくんだったよ」
エドウィンが微笑する。
「確かに、便利ですよ。それであなたの連絡先もわかったのだし……」
「そうか。不思議だと思ったんだ。連絡先を教えていなかったのに……」

「ね? すごいでしょう? コンピュータは何でも調べられるんです。知りたい事や知りたくなかった事……。どんな事でもみんな……」
風が少年の髪を靡かせた。
「それで、何が書いてあったんだい?」
「他愛ない事でした。あなたに関する事や友人の事。あとはあなたに対する嫉妬や嫌悪。そして恨み……」
ジョンの黒い瞳の奥に、昨夜見た文字列が風のように流れ去っていく。

「他には?」
男が一歩、少年に近づいて言った。
「あなたが行った事すべて……。いや、ただ一つ、最後にした事だけは書けなかったかな」
ジョンは相手を注視したまま、一歩下がる。
「なるほど。それで、リンダもそれを読んだのかい?」
口の端を少しだけ上げてエドウィンが訊いた。
「いいえ」
ジョンがそう答えると、彼は喜んで言った。
「そうか。安心したよ。彼女はなかなか僕の好みの女性なんでね。出来れば、今後お付き合いしたいと思っているんだ」

「それは無理だね」
少年が言った。
「何故?」
「ぼくが許可しないもの」
「過保護なんだね。そんなにお姉さんの事が心配?」
「そうじゃないよ。ぼくらの愛は誰にも邪魔させないと言ったんだ」
霧の向こうに覗く教会の屋根。その鐘楼の鐘が時を告げる。
「愛だって? 確かに君達は血の繋がりはないようだけど、それはもう少し大人になってから言うもんだ」
男は少年を諭すように言った。
「どうして? 愛に年齢なんか関係ないでしょう? それに、ぼく達は、あなたが思うよりずっと深い繋がりを持っている。まさしく、血の絆って奴をね」
「絆だって?」
男が笑う。

「運命で決められているんだよ。彼女はぼくから離れられない」
「それは大した自信だね、坊や。だが、彼女は必ず僕を選ぶさ」
そう言って笑うエドウィンの笑顔は魅力的に思えた。映画スターのように……。しかし、ジョンはそれを否定するように言った。
「彼女は、あなたを選ばない」
「何故?」
「ぼくが忠告するからさ」
「忠告だって? 何をだい?」
「あなたがこれまでして来た事のすべてを……」
ジョンは封筒を胸に抱え直した。

「ブログに何が書いてあったって?」
「懺悔」
少年が言った。
「あなたは、もう随分前から快楽殺人を楽しんでいた。そして、妹さんもそれに荷担していたんだ」
「はは。何を言うのかと思ったら……。どうやら、愛する妹は精神を病んでいたようだな。それとも君のフィクションかい?」
「ぜんぶ本当の事だよ。でも、そんな事をぼくは責めたりしない。人は戦争で多くの命を奪う。市民を守るためには犯人も射殺する。ぼくが許せないのは、最高の協力者だった妹を殺した事だ」

ジョンには闇の風が見えていた。しかし、そこに彼の妹の気配はなかった。
ブログに綴られていた文字は恨みがましいものだった。

――わたしは蹂躙されたのです。

しかし、闇はなかった。
彼女は心から兄を愛していたのだ。

――だからこそ憎いのです。わたしの人生を滅茶滅茶にした兄が……。

彼女はずっと協力者だった。兄のために獲物を狩る手伝いをした。

やがて、エドウィンは微笑を浮かべて言った。
「殺すつもりじゃなかったんだ。妹だからね。でも、僕が振り下ろした斧の前に飛び出しちゃったんだよね。ただの女友達のために……。運が悪かったのさ。可哀想に……」
男の手首には冷たい銀の魚が犇めいていた。

「それで、10人以上の少女達を……!」
「少女ばかりじゃないよ。君のような少年も僕を燃え立たせる。リンダは魅力的だけれど、君をひと目見た時からこの手で壊してみたかったんだ」
正気をなくしたような目で見つめる。
「ぼくにそんな事が出来ると思うの?」
ジョンは威嚇するように鋭く言った。
「出来るんだよ。僕は大人だからね」
「でも、ぼくは警察にコピーを渡した。もうすぐパトカーが来るだろう」
少年の言葉を男はせせら笑った。

「可愛いね、君。コンピュータで資料を見なかったのかい? この街の警察は僕の叔父さんの傘下になっているんだよ。どんな証拠が出ようと僕が逮捕される事はない。さあ、おいで。探偵ごっこは楽しかったかい?」
男が腕を伸ばすと、厚みのある筋肉が盛り上がり、眉間の血管が浮き上がった。
「さあ、その資料をこっちに渡すんだ」
エドウィンはジョンを捕まえると無理に書類を奪った。それからフェンスに押し付けると首に手を絡めて来た。彼は必死に抵抗し、その脇腹に蹴りを入れた。そして、男が怯んだ一瞬の隙を突いて、フェンスの縁に足を掛け、素早く上ると内側へ飛び降りた。男も柵を越え、少年を追った。

ジョンは全力で走ったが、広いテニスコートでは隠れる場所もない。次第に息が切れて咳き込んだ。そうしてスピードが落ちたところで追い詰められた。
「ほうら、捕まえた! 君は身体が弱いんだってね。可哀想に……。だったら、この世に生きているのは辛いだろう? 僕がすぐに楽にしてあげる」
そうして、男の手が少年の首を締めた。霧の晴れた空には闇があった。漆黒に覆われた闇の空……。コートの向こうには家々の屋根も見えた。そして、窓と、その明かりが……。

――その下には幾千もの生活がある事を……

(このままじゃ、ぼく死んじゃうよ! それでも君はそれを言うのか?)
意識が遠退きそうになった。その時。
「ぐふっ!」
男が悲鳴のような呻き声を上げ、地面に伏した。背後にリンダが立っていた。空手の技で男を気絶させたのだ。

「ジョン!」
リンダが少年を助け起こした。
「大丈夫だよ」
少年はそう言うと激しく噎せた。
「馬鹿ね。こんな無理するから……!」
彼女は少年の背中を摩りながら言う。
「無理じゃないよ。ぼくはただ、君を守りたかっただけなんだ」
「それは、自分自身を守れる強さを手に入れてから言うものよ」
「守れるよ」
彼はリンダの向こうに臨む空を見つめる。

「嘘」
「嘘じゃないよ」
ジョンは自分の手のひらを見て頷く。
「ぼくには力がある」
「ここにはコンピュータはないわ」
「君だって知っているのでしょう? 本当はあの日、何があったのか……。ぼくがこの手でやった事……」
「ジョン……」
リンダはじっと彼を見つめ、首を横に振った。
「それで、ぼくのママは死んだのでしょう?」
「ジョン……」
彼は涙を流していた。リンダはそんな少年を強く抱き締めた。

「ロンドンはいいよ。何もかもを霧に包んで隠してしまう。街も、過去も、罪人も……。デニスがぼくをここへ隠そうとしたのもわかる。だけど、この手は隠せやしない。この手はぼくに繋がって、闇はぼくに続いてるんだ」
「もう、いいのよ。あなたは何も心配しなくていいの。デニスがぜんぶうまくやってくれたから……」
「さっきは首を絞められて苦しかった。そしたら、闇がぼくに集まって来た。その風が空で渦巻いて力を蓄えて、地上に降りて来ようとしてたんだ。ぼくは、もう少しで同じ過ちをするところだった。でも、耐えたんだ。この街には君がいたから……。必死に耐えたんだよ。2年前にはそれが出来なくて大切なママを失ってしまったから……。今度は絶対に亡くしたくなかったんだ」

「コントロールしたの?」
「わからない。でも……力は発動しなかった」
再び霧が渦巻いていた。
「霧に助けられたんだ」

その時、道路に車が停まった。そこから降りて来た男二人。一人はMGSの責任者である金髪のデニス、もう一人はその直属の部下である黒人のウーリーだった。
「ジョン! 無事か?」
金髪の男が声を掛けた。
「デニス! いつ、こっちに来たの?」
少年が訊いた。
「今朝早くに着くとメールしただろう?」
ジョンははっとして昨夜のメールの差出人を思い出した。確かにデニスの名前もそこにあった。が、彼はいつもの定時連絡だと思って後回しにしたのだ。

「この者の処遇はどうします?」
まだ伏しているエドウィンを示して、ウーリーが訊いた。
「地元の警察には知り合いがいるから自分は処分されないと言っていました」
ジョンが言った。
「地元? この男は第一級の犯罪を犯した。我が国の重要機密であるジョン・マグナムを殺害しようとしたのだからな。そいつの罪は重罪だ。ウーリー、その男を拘束しろ!」
「はい」
そうして、エドウィン・アルマンは連行された。そして、ジョンの貢献により、様々な余罪も露見し、その一生を牢獄で過ごす事になった。
「それくらいじゃ、殺された人達の無念はとても晴らせやしないだろうけどね」
ジョンが言った。

夜は黒い霧に三日月が掛かってきれいだった。その細い光の向こうに高い塔が見える。重罪を犯して投獄された者達が住まう建物で、周囲には川が巡り、市街地から離れていた。

――苦しくて、痛くて、恐ろしい怪物。私は、その怪物に蹂躙されました。兄がやっている事は、人間の皮を被った獣です

少年は月を見上げた。それから、ゆっくりと手袋を外す。
「さよなら。エンゼルフィッシュ」
風が髪を靡かせて、建物の周囲を巡り、濛々と立ち込める煙は霧のように広がって、そこにある何もかもを見えなくした。
「さよなら、ロンドン。霧の街……」
彼らは翌日、飛行機に乗って、その街を後にした。


Fin. Thanks for reading.